秋の気配を求めて浜松城公園に行ってみましたが、肝心の浜松城は解消工事中で見学できず…。
時間があったので浜松城公園にほど近い『元城町東照宮』(浜松東照宮)へ足を延ばしてみました。
元城町東照宮は浜松城の前身、曳馬(引間、引馬(ひくま))城のあった土地に建てらた神社です。
曳馬城は徳川家康が入城した頃に西へ移動して今の浜松城となりますが、それまで徳川家康はこの場所で生活していたと伝えられています。
“元城”という地名の由来は「元はこの地に城が建っていた」ということからきているそうですね。
浜松城の完成後はどうなったかというと、江戸時代に作成された古地図には『古城』と記載され、浜松藩の米蔵などが置かれていたようです。

今のように神社となったのは明治維新後の1877年のこと。
幕末期の静岡藩幕臣で浜松城代だった井上延陵により、曳馬城跡に徳川家康をまつる神社(東照宮)が創建されます。
太平洋戦争中はアメリカ軍の空襲と艦砲射撃により焼失しますが、当時の浜松市議会議員で弁護士でもあった大石力の尽力により再建、その後は地域住民によって管理されて現在に至ります。

鳥居をくぐった左側には手水舎があるんですが、よく見ると猫がいますね。

日光東照宮の眠り猫がモチーフなのかな?
日光東照宮の眠り猫には『猫が眠れるほど平和な世の中あることを祈って』とか『猫がいることでネズミ(不浄な物、不穏な物の暗喩)をここから先へは通さない』といった意味があるそうですが、おそらくそれに倣ったんでしょうね。

お清めをしたらまずは参拝。
勝手に色々撮影して回るのもなんとなく気が引けるので、撮影前にごあいさつを…。
参拝の後は境内を色々と回ってみました。

本殿の向かって右側にあり、元城東照宮で一番目立つのが徳川家康と豊臣秀吉のブロンズ像。
徳川家康は曳馬城に住んでいたと伝えられているのでここに像があるのはわかりますが、なぜ豊臣秀吉までここにいるのか?
実は秀吉は家康が曳馬城に来る前、当時の浜松を治めていた飯尾氏の配下であった松本氏に仕えていて、16歳からの3年間を浜松で過ごしていたそうです。

二人が浜松にいた頃の銅像なので二人の若いころをイメージした銅像になっています。
秀吉なんかは“松本氏に仕えるために曳馬城に訪れた時に猿のマネをして栗を拾って食べた”というエピソードを元にして像が作られたそうです。
場面のチョイスに若干悪意を感じるなぁ…。

この天下人2人の銅像の間に立って撮影した画像をSNSにアップすると、撮影された人の出世運が上昇するという言い伝えがあるそうです。
私も2人の出世運にあやかろうということで撮影してみました!
これで出世間違いなし!

天下人の銅像の奥にはご神木あるんですが、恐らくこのご神木は太平洋戦争の戦火を耐え抜いたんでしょうね。
樹皮がほとんど剥がれてしまっていますが、今でも青々とした葉を付けていて枝ぶりもよく、樹勢が衰える気配は全く感じられませんね。
さっきの銅像よりもこのご神木の方がパワースポット感がありそう。
というか生命力では間違いなくこの神社でもトップでしょうね!
なんかご神木の方がご利益がありそうな気がしてきた…。

本殿の向かって左側の奥には、浜松空襲で焼け残った本殿の基礎が今も残されています。
元城町東照宮再建の時にはこの基礎がある意味ご神体となって地域住民を団結させていたそうで、再建された後も捨てられることなく境内の奥に鎮座しています。
パッと見ただのコンクリートブロックですが、今もお賽銭がお供えされているのでいつの間にやら本当にご神体のような扱いになっているんでしょうね。
元城町東照宮へは浜松駅からだと徒歩10分ほど。
若干遠いので、遠方からお越しの際はタクシーかバスを使う事をお勧めします。
路線バスを使う場合は浜松駅北口のバス乗り場から
『53・56 旭ヶ丘 都田』行き、『48 和合 西山』行き、『50 山の手 医科大学』行き、『51 せいれい 泉・高丘』行き、『8 せいれい 富塚』行きのいずれかのバスに乗り、『浜松城公園入口』で下車します。
乗車時間は道路状況にもよりますが約5分といったところです。
車の場合は東名の浜松インターか浜松西インター、または新東名の浜松浜北インターが最寄りですね。
お勧めは新東名の浜松浜北インターから国道152号線を道なりになんかするルート。
これが一番シンプルで迷いづらいと思います。
街中にあるので駐車場はいくつもありますが、浜松城公園の駐車場なら無料で長時間停められるのでお勧めですね。
ただし、駐車場の営業は午前8時半から午後9時となっていて、これ以外の時間は閉鎖されてしまうので気を付けてください。
浜松と浜名湖周辺の観光がてら寄ってみてはいかがでしょうか?
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